明珍本舗の歩み
平安時代から江戸時代
明珍の姓を賜る
明珍家は平安時代より続く甲冑師の家系です。
12世紀半ばに近衛天皇に鎧と轡を献上したところ
「音響朗々光り明白にして玉のごとく、類いまれなる珍器なり」
と賞賛され、明珍の姓を賜りました。
戦乱の世の甲冑師明珍
室町時代・戦国時代は関東を拠点に移して活躍し、
日本最高の甲冑師と謳われたのが明珍信家です。
武田信玄着用の諏訪法性の兜(すわほっしょうのかぶと)は
信家の作として名高いです。
姫路藩のお抱え甲冑師
江戸時代になると明珍義時が幕府の大老である酒井忠清(ただきよ)の
お抱え甲冑師となり、現在の群馬県前橋市に住むようになりました。
明珍宗房の時、主君酒井忠恭(ただずみ)が姫路藩主となったため、
姫路に移り住むことになりました。
「姫路藩兜鍛冶明珍」と題する古絵にも
「明珍の打ちたる兜や鎧の胴は、刀では切れず、
鉄砲のたまも通らなかった」と記されています。
明治時代 ~ 第二次世界大戦
明珍火箸
明治時代に入り甲冑の需要がなくなり、廃業の危機に見舞われます。
そこで48代明珍百翁宗之は千利休の依頼を受けて作ったといわれる火箸に着目し、
火箸作りを生業にし、天下の明珍火箸の名を馳せます。
鉄を供出、廃業の危機に
昭和に入ると、戦争中の「金属回収令」などで原料の鉄が入手できず、鍛冶道具まで供出させられるなどの危機が訪れます。
51代宗之は、明珍の技を守るため代々続いた家や土地を売り払いました。
第52代 明珍宗理の挑戦
高度経済成長期に火箸を使った新たな製品を
戦争は終わりましたが、エネルギーが石炭から石油・ガスへと移行し、
火鉢やかまどが石油ストーブ、ガスコンロに替わるにつれ火箸の需要減という危機が訪れました。
この危機を乗り切るため、52代明珍宗理氏は火箸が触れ合う時の音を
何かに活かしたいと試行錯誤を重ねました。
その結果、昭和40年に「明珍火箸風鈴」が誕生することになったのです。
次代の挑戦
島根の玉鋼に触れ、新たな挑戦が始まった
平成4(1992)年、52代 宗理を襲名しました。
明珍家の「素材」に対するこだわりはつづいていきます。
日本刀に使用する玉鋼で火箸を製作。
玉鋼の鍛錬技術を学ぶため久保善博師に弟子入りした次男宗裕は
平成17年に刀工として独立。若き刀匠として活躍しています。
新素材チタン、その他の製品にも取り組む
さらに新しい金属チタンを使い、火箸や花器などの製作にも取り組んでいます。
三男敬三はチタン素材のドアチャイム・風鈴などを製作するなど、
新しい製品も生み出しています。
令和3(2021)年3月、敬三が53代 宗敬を襲名しました。